19年
一
「表現の自由」という言葉をよく聞く半年間だったと思います。
去年の夏、地元で久しぶりに会った友人と二人でギャラリーを巡ろうという話になりました。一件目は閉まっていて、二件目に訪れたギャラリーでは女性の作家さんが個展を開いていました。平面とも、立体ともつかない、不思議な迫力と繊細さをもった作品が並んでいて、私たちは静かに見て回りながら、ときどき二言三言交わしていました。そしてどういった流れでか、その女性作家と友人と私の3人で話をしていました。現在私はこの女性作家を「宮江先生」と呼んでいます。宮江先生は、あいちトリエンナーレについてどう思う?と尋ねてきました。8月の中旬ごろです。私はそこで初めて「あいちトリエンナーレ」という言葉を聞きました。
雨の中を帰り、自宅についた私は早速「あいちトリエンナーレ」について調べました。ネットの記事には『展示の中止』だとかそんなようなことが書かれていたと思うのですが、いまいちよく覚えていないのですぐに読むのをやめてしまったのだと思います。(当時のメモを見返しても、悩んだ跡は残っていても結論は書かれていませんでした。)それよりも、私には宮江先生から頂いた彫刻教室のチラシの方が気になっていました。私は基本的に全身を使って作品をつくるのが好きで、それは大きいものでも小さいものでも変わりません。絵を描くときも大イーゼル・小イーゼル関係なく体を動かしながら描くことが好きでした。ですから、彫刻にもとても興味がありました。
数日後、別の地元の友人からLINEが届きました。内容は、私が参加しようとしている彫刻教室についてです。彼女は高校3年生で、美術部に入っており、その時は確か美術系の学校へ進学したいと話していました。そこでこの彫刻教室へ行ってみたらどうかと、どうやら彼女が通う高校の美術顧問の先生に勧められたようでした。この彫刻教室は1週間程の短い期間だったので、先生も気軽に勧めたのだと思います。しかし、彼女はいま一つ決心ができない様子で、ある一枚の画像を送ってきました。その彫刻教室の先生は「あいちトリエンナーレ」に出展している作家であり、なかでも展示中止となった「表現の不自由展・その後」の出展作家の一人でした。彫刻教室の「中垣先生」がそんな人物であることを知らなかった私は、彼女が送ってきた中垣先生の作品の写真を見てぎょっとします。あいちトリエンナーレに実際に出展されていた彼の作品はなかなかにすごい・・・ですが実際に目にしていない作品を批評することほど失礼なことはないので、これだけで判断するのはよくない。それにこんな強烈な作品をつくる人がどんな人なのか、ますます興味がわいてしまい、彼女にもその旨を伝えると、なるほど私も参加してみようかなと彫刻教室への参加を決心したようでした。
彫刻教室の会場は山の向こうだったので、送り迎えは姉が車を運転してくれました。母と二人で乗ることはあっても、姉と二人で乗ることはあまりないので不思議な心地でした。
ある日の帰り、駐車場に停まっている姉の乗る車に乗り込むと、姉が「ブルーピリオド」を読んでいました。大学の子に借りて読ませてもらった私が母に以前「これを読めば受験期の私が大体わかる」と言って勧めた漫画です。私が乗り込んできたことに気づいた姉は、きりのいいところまで読み進めてから漫画を置き、車を発進させました。そしてぽつりと言いました。
「なんかさ、高校卒業して大学行って、就職して社会人になって、このままいけば結婚して。私の人生普通だよな。…でも、そういう普通が世の中難しいんだよな」
そうやな、とか曖昧に返事をした気がしますがあまり覚えていません。何と言うわけでもないけれど、この時の車内の空気と、横で運転をしていた姉のその声が、いまだにぼんやりと記憶に残っています。
二
彫刻教室も終わり、帰省も終わり、東京へ帰り、藝祭の準備に参加し始めました。法被は実家で4・5時間ほどかけて2着縫ったので、あとは神輿づくりです。
中垣先生はかなりパワフルな男性でした。私が東京藝術大学に通っていると言うと、すごく感激した様子でたくさんのことを話し、とにかく頑張れよ、東京で近々展示するからせっかくなら来なさいよ、宮江さんも一緒に展示するから、という感じで最後はがっちり握手をしてお別れをしました。彫刻教室には宮江先生も中垣先生の助手といった感じでいたため、その展示会が近くなったらDM送ってくださいとお願いをして別れました。
そうして残りの夏はバイトと神輿づくり、日帰りでユニバに行って、帰ってきたらまた神輿とバイトの日々でした。とにかく腕や顔や爪にこびりついた絵の具をバイト前日の夜に落とすことが一番大変でした。
ハガキが届いたのは秋の終わりごろだったと思います。宮江先生から、例の展示会のDMが届きました。会期は12月7日から1月5日、会場は立川の文化センターと書いてあります。ずいぶん多くの作家が出展するんだなあと思ってDMを読んでいると、オープニングパーティーの情報が書かれていました。一般4,000円、どなたでもお気軽にご参加できます。飲み物差し入れ大歓迎致します。以前、大学の子がオープニングパーティーに参加したときの話を思い出しました。宮江先生も、確かオープニングパーティーにも来てみてとか言っていたような気がします。DMの一番下に書かれていた宮江先生の電話番号にかけ、参加したいと話すと、初めて会ったときと変わらない調子で大きく歓迎してくれました。
12月7日の17時ちょっと前に立川駅へ到着しました。パーティー会場は北京料理店と書かれていました。大きい建物に入り、何回かエスカレーターに乗ると、レストランの並ぶフロアに出ます。とりあえずぐるぐると回ってみるとそれらしいお店を見つけましたが人気がありません。もう一周すると今度はお店の前にお兄さんが立っていました。しばらく様子をうかがっていましたが確信が持てなかったので、さらにもう一周して戻ってくると、お客さんが二人お兄さんに案内されて入店していました。試しに声を掛けると、君もだったのか、ごめんねと言って中に案内してくれました。
狭い通路を抜けて奥へ行くと、開けた空間で、すでに人がたくさん集まっていました。たじたじしていると宮江先生がこちらに気付き、再会を喜んでくれました。とりあえずお金を払い用意してもらった席に座り、右隣にいた男性と、さらに隣りの女性に挨拶をして軽く話をしていると、間もなくしてオープニングパーティーが始まりました。
三
ぽっかりと穴の開いた後期ゼミが終わり、一年最後の制作に向けてゆっくりと時間が流れはじめます。11月の半ば頃、ギリシャから一人の作家が講師として招かれてきていました。ハリス先生はギリシャという土地柄か、穏やかな物腰で、ゆっくりはっきりと私たちが聞き取りやすいように英語を話す人でした。生徒全員に自己紹介のようなレクチャーを終えた後、個別講評が始まります。ハリス先生は50名以上を超える生徒一人一人の制作場を周り、一人一人と丁寧に話し、柔らかく声をかけていました。私は、ハリス先生が自分のところへ回ってくることが憂鬱でたまりませんでした。見せるものも何もない、気休めのドローイングを少し見せて、お互いに困ったような空気になったとき私は、ハリス先生に「制作において、作品に意味や意義は必要ですか」と尋ねました。ハリス先生は何度もうなずいてから少し考えて「すごく大切なことだね。けれど頭で考えているだけではだめだよ。手を動かして、動かしながら考えるんだ」と英語が上手く聞き取れない私に、くりかえし、くりかえし私が理解できるまで目を見て何度も言い残しました。
その翌日か翌々日かに、ハリス先生は再びギリシャへと帰っていきました。
私は彼の言葉通り、足を運び、手を動かすことに専念しました。考えるだけではだめだ、手を動かしながら考えなくては、手を止め足を止め先へ進まないことは罪だ、けれど、何かが違っていました。これでいいのか、先が見えない、見えない楽しさよりも見えない恐ろしさが胸の中を覆っていて、運ぶ足も重くなり、動かすと誓ったはずの手も、結局動かさなくなっていきました。頭の中もどこかぼんやりとして、ただ純粋に、絵が描きたくて、大きなキャンバスに何でもいいから絵の具をのせたくて、何も考えずに絵を描きたいのに、そんな欲ばかりが寝ても覚めてもぐるぐる頭とからだを巡っていました。
だからか、ある時から、薄暗い部屋で布団に寝転がりぼんやり部屋を見つめていると、ああ、この部屋中に描きたいなと考えるようになりました。
季節はすっかり冬になっていました。講評の前日、わたしは明日死ぬかもしれないとそういうことばかり考えていましたが、意外と教授は優しくて、私は当日死なずに無事一日を終え、家に帰ることができました。
喰えない笑みをいつも浮かべている、ある教授が「意味のないことをやりつづけたらいいよ」と私に言いました。その人は、私がハリス先生に質問したとき側にいて通訳をしてくれていた先生でした。私はその人ほど「意味のないこと」から何かをすくいとっていくことの上手な人は見たことがありません。しかし、そうであっていいのかもしれないと、私が目指すべきはこういう姿かもしれないとその言葉を聞いて思いました。
四
12月8日の日曜日、文京区民センターというところに私はいました。先日のオープニングパーティーでもらったたくさんのチラシの中の一つに映画「主戦場」の上映会の案内状があり、ぜひ観に来てほしいと宮江先生から誘われたこともあって、観にいくことにしていました。会場へ行くと昨日ぶりの中垣先生と宮江先生と、そしてこのチラシをくれた武内さんもいました。私は中垣先生と宮江先生の間に座り映画をじっと観ていました。
上映会が終わると、せっかく来てくれたのだからと、ご厚意で運営の人たちの打ち上げ会に参加することとなりました。打ち上げは「味菜里」という中華屋で、一人未成年だった私はオレンジジュースをちびちび飲みながら、主に話を聞いて食べていました。そのとき居たのは15~20名程でした。若い人もいれば年配の人もいて、ただみんな何かしら闘いつづけている人なのだということは分かりました。中垣先生はまっすぐ人の目を見る人でした。中垣先生は私の目をまっすぐ見ながら、「あなたが真剣に生きてきたから、こうして真剣な人たちにあなたは出会えたんだな」と言って、お酒を飲んでいました。
彼らといるとき、私は自分の無知を思い知らされるような心地がします。彼らの生きている姿はとても生々しくとても人らしいです。人の中で人を知って、力いっぱい生きている姿が、生き生きとしているというよりももっと人間臭く、知っているからこその強さがありました。私は何も知りませんでした。あいちトリエンナーレのことも、交付金のことも、そしてそれは珍しくないということも、日本のことも、何ひとつ知ろうとしていない自分がそこでひとり、浮いているような気がしました。知らなかったでは済まされないようなことを私はずっと知らないまま生きてきたことに、愕然としていました。私の生きてきた19年が空っぽのようでした。
この空虚さは去年の7月頃から感じていたものでした。ある友人は私のことを「すべてを受け入れる人」だと言いました。確かにそうです。苦笑いしか返せませんでした。私は、他人の話しに笑ってうなずいて、否定も肯定もせず、そうだねと言うことがたくさんありました。私は、興味のないことは考えることすら面倒だからとお茶を濁すように笑い、それを相手にも自分にも悟られたくないから、まるで他人の意見をすべて受け入れたようにみせて、何ひとつ受け入れずに笑っていました。そういう自分はあまりに空っぽでした。そしてそういう自分の浅はかさは、きっと人にどこかでつねに見透かされていました。そうして気づいてくれた人たちがいたから、きっと、小石のような言葉が積み重なって、ひとつの大きな決定的なものとなったのだと思います。
だから、このブログを書こうと思いました。すぐに人に頼って大切なことを忘れて迷ってしまう自分が、迷ったときに思い出せるように、たとえ変わったとしてもいいのです。ここに書いてある思いが一生同じでなくとも、少なくとも19年間生きてきた自分が出した、今のこたえを残しておきたくて、ここに書くことにしました。