amaneのブログ

思考を整理整頓するための場です。

名無しと名前

 私がもしもあなたのために腕を切り落としたら、あなたは私のために腕を切り落としますか。

 私があなたのためだと言って切り落とした腕と同じくらい、ときに人の心や情というものがすべて重く苦しいものになるときがあることを理解していますか。

 自分が差し出すものは、当然のように相手から差し出されるべきですか。

 自分が身を切って心を差し出せば相手も身を切って心を差し出してくれますか。

 相手のことを好きなれば、相手も私を好きになってくれますか。

 
 そう思いたいと思う心をもっていることも紛れもない事実です。だって好きな人が自分を嫌っていたら悲しいからです。それでも相手が何に感謝を感じ、何に対して身を切り心を差し出そうと思うのか、そして何に憤るのか、そういうものから目を逸らすことは相手に対して最も不誠実であり傲慢な、思い上がった行為だと思っています。

 自分の思い通りにすべてが返ってくるのは上辺の社交辞令の世界だけで、本当に一人の人間と向き合うとき、きっと思い通りにいくことなど何一つないと思っています。

 だからこそ、人と言葉を交わし目と目を合わせることは面白いです。

 

  中学生で初めて性善説性悪説を知ったとき、どちらが正しいのだろうかと考えていたことがありました。人の本質とは何なのかだろうと今でも考えます。

 私は親しい人を花に置き換えたり、多面体にたとえて考えることが時々ありますが、友人たちとも、誰々はあの動物だとか、あの図形だとか、あの色だとか、そういう比喩話で盛り上がることは度々あって、そういうとき、たぶん私たちは人の本質に近いものをとても真剣に見つめているのではないかと思います。

 人がものにたとえられるように、ものも人もそれぞれ何かしら一つの揺るぎないものをもっていて、きっとそれが性質や本質、本性や正体と呼ばれているのだと思います。

 美醜や善悪を決めるのはいつだって人の意思です。名前のないものに名前をつけて大事にし、名前のないものに名前を付けることで自分が理解できる枠組みに相手を当てはめて、相手を理解しようとします。その努力があるから誰かは誰かに救われるし、自分は自分の足で立って生きてゆけます。

 しかしその枠組みだけがすべてではないことも知っています。その枠組みから外れたものがあることも、枠の中のものが変わっていくかもしれないことも、枠組み自体も変わりゆくものだということも、知っています。

 どちらも大切です。自分の中に湧き上がる感情、育ててきた価値観、それらを通してみる自分の世界と、そこにある世界。どちらかではなくどちらも大事にしながら、その上で、自分の中の大切なものを大切にしていくことが私なりの誠実さであり、それが相手と自分に尽くす最上の敬意です。