amaneのブログ

思考を整理整頓するための場です。

先生

 恩師、というとたくさんの人の顔が思い浮かびますが、先生、というと一番に口をついて出るのは、高校の美術顧問の先生です。

 

  私が高校のとき所属していた美術部は、よく「動物園」と外からも内からも呼ばれていました。

 みんな冗談半分で笑いながら言っていましたが、改めて思うと本当に的を射ています。

  飼育員である先生は、誰の、何も一切否定しない人でした。檻の中に入れているというよりかは野放しにしている、虎が木に登り、パンダが笹を食べているのを見てはニコニコして頷いて、良し良しと笑っていました。けれど、虎が北極へ行き、パンダが肉を食べ始めても、じっと目を見て何も言わず、うんとただ一つ頷く人でした。どれだけちぐはぐでも、そのちぐはぐさに気づいていたとしても、決して否定をしない人でした。否定することの重さを理解して、口には出さない人でした。

 

 卒業も近い高校3年生の冬のある日に、ぽつりと先生が、「NさんとMちゃんは良いものを持ってるのに。絵にこだわらなくても良かったのに、もっと、別のことを色々させてやれば良かったなあ」と零していたことがありました。私はそれを聞いて、なぜそのことを本人たちに言わないのだろうかと不思議に思っていました。けれどそう思ったところではたと、そういえば、この人が何かを人に求めているところを、ただの一度も見たことがないことに気がつきました。

 もちろん部に所属している以上、展覧会に出す作品をつくれと言われ、描きたくなくても描けとたくさん尻を叩かれました。しかし、それは要求というより、部に入ることを望んだ自分たちの当然の義務でした。受験期には何度も「この絵は落ちるね」と容赦なく言われたし、無理して描けと言われたこともありました。でもそれも、望んでいたのは自分たちです。美術大学に入りたいと望み、課題をくださいと毎日せがみ、講評してくださいと先生にねだったのは、自分たちの背中を押すように先生に願ったのは私たちでした。

 

 先生が、美術の道へ進まないかと言ったことは、あの3年間において一度もありませんでした。先生はいつも、私たちが何かを考えて懸命に見つけようとすることを望んでいても、求めたことはありませんでした。私たちがより伸び伸びと、自由に生きられるよう手助けはしても、手を引いて導くようなことは一度もしませんでした。先生が残していった欠片に気づくのか、そしてそれをどうするのかは、すべて自分たちに委ねられていました。

 

 私が描いた絵には、それはもう見るのも憚られるようなものもたくさんありました。自分ですらそうと分かるのに、先生が分からないはずがありません。けれど私がどんなに下手で稚拙な絵を描いても、それを下手だと言い、あなたに絵は向いていないと先生は言いませんでした。こんな絵はもう駄目です、酷すぎます、これ以上描けませんと、私がみっともなく放棄した絵を、私が置いた筆を手に取って、先生はまだいけると描いたことすらありました。自分が棄てた絵の横でうなだれる私を、先生は、とうとう𠮟りませんでした。

 否定することの重みを理解して、それでも私を否定してくれる人はたくさんいました。私の駄目なところを駄目だと叱って、厳しい言葉をかけてくれる人の言葉は深く刺さり、私を律してくれました。

 ですが、私の一切を否定しなかった人は、先生ただ一人でした。すべてを肯定はしません。けれどすべてを否定しませんでした。たとえ迷っても、迷っていることを告げず、ただ気づくまでじっと待っていてくれました。気づくか気づかないかも分からない、布石とも呼べないような小さな一欠片をただ置いていってくれる人でした。

 

 否定も必要です。でも、否定しない人の存在もまた、なくてはならないものでした。私は間違いなくこの人の存在に幾度となく助けられていました。そして、これからも助け続けられるのだろうと思います。