amaneのブログ

思考を整理整頓するための場です。

芸術とドラッグ

 自分の恋心が全くあてにあらないことに気づいたのは中学1年生のときで、当時一目惚れしていた相手を一瞬にして好きでなくなったとき、何となくそれを悟りました。

  それからいくらか経ち楽しく中学生活を送っているとき、はたと自分が定期的に入れ込む女の子を変えていることに気がつき、それを何かの折に男の友人にぽろっと話したら明確に引かれたので、そこでやっと、自分は自分が思っていたより薄情な人間なのかもしれないということを自覚しました。

 こういうことは今になって思い返してみればこそ思い当たる節が多々あるけれども、あまり恋愛ごとのゴタゴタには巻き込まれないように人生を送ってきたので、自覚するのにずいぶんと時間がかかってしまいました。きっと自分一人の心の中では忙しなく恋愛をし続けてきたのかもしれません。けれどそれも今となってはすべて恋ではなかったということで、結局のところ私は今の今まで初恋も甘酸っぱい片思いもいじらしい両片思いも経験しないまま19年を過ぎてしまいました。

 私は自分を見つめるとき周囲の人物との対比で見つめることが多いのですが、その中でも姉と自分を比べることが非常に多いです。姉は私にとってもっとも近しい他人のような存在だから、きっと自分との比較によく出てくるのだと思います。
 姉は私とは対照的に一途な人でした。恋愛でも、なんでもかんでも。
 こういうと変ですが彼女は多岐で器用な一途さを持っていました。大体一途とは不器用にそれしか愛せないから一途というのであって、多岐で器用な一途さがあるのか?と自分でも疑問ですが、それほどまでに一途でありながら同時に他のものも同じ熱量で愛し続けることのできる彼女は、私からみるととても器用な人に見えていました。そして姉をはじめとしたそういう人たちに私はずっと憧れていたし、だからこそそういう風になれない自分に気づいたときは自分を嫌いだと思いました。今では案外なんてことはないのですが。


 そうやって割り切って考えていく中で私はずっと、どうして自分は一人の人をずっと好きでいられないのか、問い続けていました。
 自分の歩くところには風向きがあって、それによって付き合う人も変わっていきます。

 風向きが変われば立場も状況も心境も変わるし、求めるものや欲しいと思うものも変わっていく。だから、違うものをくれる人のところへ移っていく。自分は常に自分の状況をしっかり理解して色々なものを選択していかなくてはいけません。だから人も選択していく。その時その時の自分の状況と目的に合った人と親交を深めて、また状況が変われば別の場所へ移っていく。戻ることもあるし、もう二度と戻らないこともある。不誠実だと言われてもそういう生き方しかできないし、無理して変える必要もないと思っています。

 

 でもそういう自分だから、ふと、どうして私は絵を描くことを選んだのだろうかと立ち止まることがあります。思えば小さい頃から絵を描くことは好きだったけれど、それも他のものと同じ枠から出ない「好き」だったはずです。私には好きなものがたくさんあって、どれが一番かと言われたら答えられないけれど、それらが確かに好きで、興味があって面白いと思うことに間違いはない。なのに、どうして一番を選べない私が芸術を選んだのか。

 

 もし私が絵を描く前に薬物と出会っていたらきっと薬物中毒者になっていただろうとよく思います。大麻でも覚醒剤でも、タバコでもいいのですが、芸術にハマるメカニズムは薬物にはまるメカニズムとよく似ています。

 苦しいことは確かにたくさんある。けれどあんなどん底の苦しみを味わったことは作品をつくるとき以外では記憶にありません。そして、その苦しみをすべてかき消すほどの快感を味わったことも、作品をつくるとき以外で味わったことがありません。

 もしかしたらこの選択は実は選択ではなくて、ただの中毒症状なのかもしれません。けれどもしそれこそを「好き」であるというならば、私は確かに絵を描くことが好きで、私は好きだから芸術を選択したのかもしれません。だから、私は芸術以上の苦しみと快感を与えてくれるものに出会うまでは、きっと芸術を好きでいるのだと思います。しかし同時にそんなものは存在しないことをすでに確信してもいるのです。