amaneのブログ

思考を整理整頓するための場です。

祖父

 

  養護施設の冷たい廊下でベッドに横たわる祖父を見たとき、胸の前で両手を組まされて横たわる祖父を見たとき、焼けて骨となった祖父を見たとき、
 私の祖父には三回の死がありました。

 私は冷たくなった祖父を見ても何の感情も湧き上がりませんでした。どこかぼんやりと、亡くなった人は、こうなのかと、そんなことを思っていました。
 祖父の遺体に泣き縋る人たちの姿を見ていても、私はどこか冷えた気持ちを抱いていました。お経をあげているときのほうが、よほど祖父に何かを語っているような気がしていました。
 お葬式は、まさしく厳かな儀式のようでした。祖父の残した遺体という遺品を、祖父の代わりに、ありがとうございましたと神さまや仏様に返しているようにも見えました。

 

 祖父は、祖父の身体が冷たくなるずっと前にもう、死んでいました。私にはもう、祖父が生きているか死んでいるか分からなかったのです。
 祖父が亡くなってすぐの頃、祖父は果たして幸せだったのだろうかと、そんな詮のないことばかり考えていました。死の淵に立ったことのない私には、自宅ではない部屋で、よくは知らない人の世話を受けて、話すことも食べることもできないまま、それでも生きたいと思えるのだろうかなど、考えても分からないのです。

 ただ祖父はよく、死んだらばあに会いに行くのだと言っていたから、だから、祖父は亡くなっても寂しくないのだと、ようやくばあばに会って、きっと今ごろは笑っているんじゃないかなと、そういうことも考えていました。

 死に何かを祈ることはとても滑稽です。確証のない死後に願いを託すよりも、今目の前にある、生きていく中での苦しみや悲しみにどうにか向き合っていくほうがよほど現実的です。と、私は這いずってでも生きていくと決めていますから、こう言います。ですがそれも死ねない理由があるうちだけのことです。私の死ねない理由は、私が生きているうちになくなることが分かっています。
 死ねない理由がなくなって宙ぶらりんになった私の命は、生は、果たしてどうなるのか。這いつくばって、そのまま止まれば死んでしまうという状況のとき、果たして私はぼろぼろの心と体を引きずってそれでも生きるのでしょうか。そうして理由もなく這いずって生きることは幸せなのでしょうか。
 私は祖父が、ベッドの上で食べれず話せずいた祖父に、何かそういう理由が一つでもあってくれていたらいいのにと、そんな勝手で意味のないことを思っています。

 

 むかし、私がまだ一桁の年の頃、胸に手を当てて眠ると悪夢を見てしまうよと、祖父が言っていました。私をからかうための冗談だったのか本気だったのか分かりませんが、最後に胸の前で手を組み横たえられた祖父の姿がふと思い出されて、その姿がよぎる度、私はどうか悪い夢なんて見ていないよう、どうか幸せに笑っていてくれたらと、結局はそう天に願ってしまうのです。