amaneのブログ

思考を整理整頓するための場です。

視覚はオレサマ

 昔書いた日記とか、こっそりため続けた小説とか、熱に浮かされて描いた絵とか、渡せずに終わった手紙とか、別にポエムに限らずこういう自分が残したものって個人的には見返すと恥ずかしくてたまらないです。恥ずかしすぎて捨てることがほとんどなんですが、たまーに見返し続けていると何故か悪くないような気がしてくるので、最近は捨てずにとっておいています。

  そういう流れで、この間ひさしぶりにメールのやり取りを見返していました。私が小中のころは友人間でのウェブメールもまだ活発だったので、読むと小中学生だった当時の生々しい自分を知ることができます。

 メールとは不思議なもので、LINEほどの近さも、手紙ほどの遠さもない、ほどよい距離感で言葉を交わせるからなのか、相談事はメールでされる方が多かったです。しかしそれに対する自分の返事があまりに辛辣で、我ながらひどいなー・・・と思いながら見返しつつもそんな返事をもらってもなお自分と交流を続けている相手の逞しさに感心していました。

 

 直接の対話と文面での会話が違うことはよく言われますが、やっぱり見る言葉と聞く言葉は全く違うなと、最近はことさら身に染みて感じます。言葉の大もとの部分は変わりませんが、伝わり方は変わってしまいます。自分は言葉をあまり選ばない人間なので直に接するときは声色や表情、雰囲気、視線、そういったものに頼ることが特に多いです。

 この文章もいざ口で誰かに伝えようと思うと、全く違った形になると思います。それは単純な書き言葉と話し言葉の違いだけではなく、目に見えるものがそれだけ強いからです。思いをかたちにされれば安心するし、言葉を行動で示すことは信頼を生む、人は、そこにあっても見えないだけで不安になることがたくさんあって、だからこそ目で見えるものは、そこに見えたものだけでそれがすべてだと思ってしまうこともたくさんあります。 

 しかし見えることと同じくらい、見えない、という事実も力をもちます。この、見える見えないという事実は同じくらいに力をもっていて、だから見える見えないが判断基準となることが多くあるのだと思います。見えるから信じられるものも、見えないから信じられるものも、どちらも確かに存在しているのです。

 

 作品は必ず自分の目で直接見なさいとよく言われました。いくら画集で見ても、画像で見ても、分かるのはせいぜい構図くらいだと先生は言います。ネットでなんでも見れる時代で、旅行だってショッピングだってお手の物ですが、人間には五感、六感があり、より豊かにものを感じとれる機関があるのに、視覚だけにすべてを任せて生きていくことはもったいないことだと思えます。

 少なくとも、たとえ平面の絵画作品であっても存在しているのは三次元なのですから、やはり視覚だけでは見れないものがたくさんあるのだと自分は思っていますし、そのために私は足を運びます。ですから時には視覚以外の子たちも頑張らせてあげられると、世界も変わって楽しいですよね。

 

 

f:id:amaoto13:20200802120208p:plain

『ヤンキー君と白杖ガール』のユキコさんと黒川

 

mangahack.com