amaneのブログ

思考を整理整頓するための場です。

争い

 なぜ戦争をしてはいけないのだろうか、とか、どうして戦争はなくさなければならないのだろうか、とか、高3の秋冬あたりから時々ふと思い出しては考え、またふと思い出しては考えていました。

  確かに戦争はものも人も傷つけます。しかし戦争をしているのは人で、結局は人が人を傷つけものを傷つけます。学校の平和学習で戦争体験者のお話しを聞いたり、戦争資料館へ行ったりしました。お盆の時期には戦争の特集番組をみて、祖父からは幼い頃より戦争について幾度となく説かれ、その度に戦争はいけない、戦争はいけないよと繰り返し言われ、ここまで育ってきました。けれど戦争のどこがどうしていけないのかったのか、戦争を起こした人間の何がいけなかったのか、何を間違えていたのか、私は何を繰り返してはいけないのか、何ひとつ分かってはいませんでした。そして何ひとつ理解していないのに、これらの情報を知っているだけで理解できていると思っていました。

 だからといってこれらすべてを無駄だったとは思いません。ひとつひとつが大切な経験だったとしっかり言えます。
 しかし、ではなぜ戦争がいけないのかと改めて問われても「ひどいから」としか言えないくらい私の認識は曖昧で、この認識の甘さこそが戦争を引き起こすのではないだろうかと思うほどでした。私にはあまりに戦争が悪という言葉で包まれすぎていて、かえってその本質を丸ごと包み隠しているようでした。お前はだめだ、お前はだめだという割にどこが何故だめかはちっとも言ってくれない、少なくとも、そうやってすべてを否定で包まれてしまうと途端にわからなくなってしまう人間もいて、間違いなく私はそういう部類の人間でした。

 争いはなくならないと思います。そしてなくならなくてもいいと思っています。争いをなくすことはすなわち多様性をなくすことで、多様性を謳う限り争いをなくすことは不可能だと思うからです。

 非難や否定や反対のない世界に、争いはないのかもしれません。誰もが同じ方を向いて同じことしか言わない世界を平和な世界というのかもしれません。しかしそれは誰の言葉も交わらない、誰の目も交わらない寂しい世界であるとも思うのです。
 人の向いている方向や立ち位置は少しずつ違っていて、その位置や方向から、一生視線も声も交わらず出会うことのない人もいれば、知らず誰かに見られ、突然に声が聞こえることもあり、また目と目が合わさって互いに声と声を交わす人に出会うこともあります。そうやって視線が重なり声の重なる部分があるから初めて互いの存在に気づき親交を深めることができるけれど、当然相手には自分の、自分には相手の視線も声も届かない場所があります。そしてそれは、多くの場合、現れるときは突然で、唐突に目の前に現れます。目の前に現れてから初めてその存在を知ります。

 わたしがその領域の存在に気づいていなかったがために相手の大事なものを傷つけることもあり、また同様に相手に傷つけられて侮辱されることもあります。そうしてやっと初めて気付くからです。
 それでも人の視界はとても狭いから、どれだけ相手の見えていなかった領域に気付けたとしてもそれはほんの一部で、結局相手のすべてを見ることはできないのかもしれません。どれだけ目と目を交わし言葉を交わし気付けても、目の前に現れて見えるものもあれば一生見ることのできないものもあるかもしれません。そういう、目の前には現れない、決して自分に見えないものがあるということに気付いたとき、それを否定して知らないからと踏みつけようとするのか、それでも見ようとして目を凝らすのか、それとも見えないまま受け入れようとするのか、そっと離れるのか、その選択次第で相手との関係は大きく変わるのだと思います。そしてそこで選んだ互いの選択が互いに受け入れられないものだったとき、はじめて、それまでの気付くための喧嘩とは違う、気付き理解した上での喧嘩が始まるのだと思います。その延長線上に犯罪や戦争もあるのだと思います。

 非難も否定も反対も、しながらされながら、それでも互いに生きていけることはできます。ときにこれらが自分の背中を大きく押してくれることさえあります。それは、相手に非難しようとする意思はあっても、排除しようとする意思がないからだと思います。自分の生き方や考えが否定されても、わたし自身の存在を否定されてはいないからです。駄目だと言われてなじられても、死になさいとは言われていないからです。
 けれど、お互いの意見ややり方を理解し、すでに非難や否定も言い合った上で行う争いは、排除へと向かうのでしょう。

 理解した上での喧嘩は相手を傷つけることも自分が傷つけられることもお互い分かっているから、傷つけることへの躊躇がなくなります。それはときに誠意ととられることもありますが、冷酷で残虐なものにとられることもあります。本人たちはどちらでもいいのかもしれません。どちらであろうとも止まる理由にはならないし、もう自分では止まれないと分かっているから、正義と持ち上げられようが、残酷だと非難されようが、そんな定義づけの言葉は彼らに何の意味も為さないのかもしれません。だからこそ、誰か、もっと別のどちらでもない存在がなくてはならないのだと思います。躊躇わなくなった彼らを諌め、両方きちんと叱れる人がいなくてはならないのだと思います。諌めたしなめられ、それで例え彼らが何も悔い反省し改めることがなくとも、それは絶対に必要なことだと私は思います。

 それは、人を傷つけていい理由がこの世に一つも存在しないからです。

 

 倫理や善悪を、私は感情でしか語ることができません。なぜ人を傷つけてはいけないのか問われても、それに対する納得のいく論理が未だに見つかりません。

 だから私も結局は「戦争はだめだ」としか言うことのできない人間の一人です。その上で述べます。

 

 なぜ戦争はいけないのか。

 律法社会の世の中には人の上に法があり、私たちは法を執行することで自らを律します。
 法で殺人は罪として定められているのに、戦争であれば殺人は罪ではないなどという話はあまりにおかしいです。

 互いに殺し殺されることを覚悟していた上での殺人であっても、それが正しいことであっても、それらを理由に許されてしまうことはとてもおかしいです。それなら法は何のためにあるのか分かりません。


 戦争においての勝ち負けの本当におかしいところは、どちらの国も、勝った国も負けた国もお互いの国民を殺し、人命を奪っているにも関わらず、裁判において敗戦国のみがその罪を問われ、同じく人を殺してきた戦勝国はその罪がなかったことになる、勝った国は人を殺してもいいが、負けた国は人を殺してはならない、
 

 大局のために、小さな犠牲に目をつむる。相手のために、相手を傷つける。生きるため、自分の心を潰し生きていく。いろんな理由のもとに誰かを傷つけるなんて、数え切れないほどあります。しかしどの理由も等しく何かを傷つけていい理由にはなれません。殺してくれと頼まれたから殺したとしても、後に残るのは自分が彼を殺したという事実だけです。だからこそ、人ではない、法が裁くことに意味があると思います。

 きっとその覚悟をもって相手を傷つけようとする人を止めることは無意味です。許されるとも、許されようとも思っていない人間だからこそ、法が必要なのでしょう。
 中学の頃、高瀬舟を読んで、なぜ、この人が、ほかのしょうもない犯罪者たちと同じく流されなくてはならないのかと思ったときもありましたが、事情があるから人を殺していい理由にはならないのです。もし、法律が戦争であれば人を殺していいと言ってしまったとしたら、そのとき人は一人残らず死んでしまうのではないだろうかと思います。