amaneのブログ

思考を整理整頓するための場です。

空間のあり方

 あたたかな午後の教室で心地の良い先生の声とチョークの音をじっと聞いているとどうしても眠くなる。眠くなって、極限まで眠くなると、ふっと糸が切れたみたいに知らないうちに夢を見ている。そういうとき見る夢は大抵明確でしっかりとした映像をもっていて、でも、何かの拍子にそれが夢だと気づくと一瞬のうちにすべて消えてしまう。
 こういうとき実際眠っていた時間はほんの数秒であることがほとんどだった。


 ほんの数秒が長い夢となる。一番長かったのは、一生の夢だった。なぜそうであると分かったかは分からないけれど、湯船の中でパッと目覚めたとき、今、自分が生まれてから死ぬまでを、一つの人生を夢に見ていたと、はっきり理解したことがあった。

  たった一瞬がながい夢となり、時には人一人の人生ともなる、この現象がわたしには不思議で、あるとき、ぼんやりとこのことを考えていた。
 極限まで眠いときに寝落ちをするとよく起こる現象。じゃあ、本当に極限まで身体が疲れきったとき、その夢はどうなるのだろう。数秒が一生分になるなら、一瞬はどれほどの長さになるのか。極限まで、もっと極限まで、極限、…極限、極限に疲労した身体が見る夢。


 なるほど、永眠とはそういうことかと思った。
 永遠の眠りにつくとき、人は終わらない夢を見るのかもしれない。
 たった一瞬の、死というその瞬間に永遠の夢を見ているのかもしれないなと私は思った。そして、それが私の生きる世界の空間のあり方であるとも。