amaneのブログ

思考を整理整頓するための場です。

嫌いなまま好きである

 愛されることよりも愛することのほうが難しくて、恵まれたことにこういう自分でも愛してくれる人が世の中にはきちんといてくれて、そういう人たちが自分へと愛情を伝えてくれます。例えばそれは直球ストレートだったり遠くから届くあたたかさだったり、皮肉や意地悪だったり、本当にさまざまですが、それらはとても誠実で真摯なのです。

 

  2年前か1年前か、美術館へ展示を見に行き、作品を見て好きだなあと思った瞬間、そんなことを思う自分に薄ら寒さというか、平たく言えば、そんな自分を嫌だと思ったことがありました。とても尊いものに薄っぺらい好意を抱いてしまったような、自分がその作品を好きだと思うことでその作品を侮辱しているような気持ちで、それからしばらくは作品を見ても好きだと思わないよう努めていた時期がありました。今だからこそバカだなあと笑い飛ばしてしまいますが。

 

 好意はあまりに種類が多く、多種多様すぎて自分のそれが好意であるのかまったくもって分かりません。

 一度だけ、片思い真っ只中の友人に、どうして彼を好きだと分かったのかと尋ねたことがあります。彼女は特に悩むこともなく、彼と一緒にいたいと思ったからだと答えてくれました。あまりにシンプルで、だけど、好きな人も大切な人もたくさんいる今、これが最も適当な答えに思えます。

 

 例えば人との付き合いには満ち引きがあり、温度ほど明確なものではないですが、何となくの空気感が存在しています。

 親しくなれば必ず「あ、そろそろ潮がひいてくな」という感じで「ああ、そろそろこの人から離れた方がいいな」という予感が訪れて、わたしは反射的に少し遠くへ行きます。それは、これ以上は、ふわふわした安心感と居心地の良い好きだけではいられないという領域なのです。

 私は一度嫌いにならないと人を好きになることができないので、そういった性質上、親密になればなるほど相手のことが嫌いになります。ですが、嫌いなままでいいと思いながら付き合います。嫌いなところを好きになる必要も、嫌いだからと言って好きでなくなることもないからです。

 むしろ好きな人の嫌いなところが、とても好きなので、嫌いであることを失いたくはないのです。たぶん私は相手のことを嫌いだと思う自分を自覚するとき、安心しているのだとも思います。

 

 すべてを愛してくれなくてもいいという人もいれば、すべてを愛してほしいという人もいて、どちらが真実であるとか正しいとかはないですが、嫌いだけど側にいたい、分からなくても好きだと言う言葉も紛れもない事実です。そして私はそういう人の心の勝手さとあたたかさがとても大好きで、どうせならこれからも大事にしつづけたいとも思っています。