amaneのブログ

思考を整理整頓するための場です。

  中学の授業について思い出していました。中学3年生の道徳の授業です。

 「あなたには恋人がいます。自分もしくは自分の恋人が妊娠しました。産みますか産みませんか。あるいは産ませますか、産ませませんか」そんな問いです。

 産む/産ませる と 産まない/産ませないの2つに分かれて議論をする授業でした。私のクラスでは、産むと言った女の子は2人、産ませると言った男の子は1人、それ以外の約30名は全員産まない/産ませないでした。私も、産まないと選択しました。

 

 具体的なことはもうほとんど思い出せないのですが、苦々しさだけがとてもリアルにあって、私の友人が泣いていたり、私も泣いたような泣かなかったような、何一つ明るいものはなくて何か辛くて痛いものがただただ乱暴に引っ掻き回されて終わりました。私がどうして産まないと決断したのかも、もう曖昧で、今はただ、産まないと言った自分と、40人弱のうちたったの2・3人しか産まないのだという事実が、私の中でじんわりとしたしみとなっているだけです。

 

  きっと私が作品をつくることは、突き詰めてしまえばエゴに過ぎないのです。人を好きになることも、その人を愛して子どもを産むことも。
 他人の為だけで成立する何かは自分の中にはありません。他人の為だけで成立する夢も目標も優しさも親切も愛情も存在しません。人は行動を起こす際、何かしらの報酬や見返りを貰おうとします。意図して貰おうとする人もいれば、まったくの無意識の人もいます。報酬が物理的なものか精神的なものかも様々です。そういう心をエゴと言うのだとすると、やはり私は、自分はエゴイストであると思います。しかし人の為になるエゴを人は親切と呼ぶし、人の為にならないエゴは独りよがりだと言われる、ただそれだけのことだと思います。

 

 例えばもし、相手の為だけで成立する何かがあるのだとしたら、それは心と呼べるのでしょうか。私には、それを心と呼ぶには冷たすぎるような気がします。

 もしもう一度同じ問いかけをされたなら何と答えますか。私はきっと誰のどんな決断にもどんな言葉も返せないのです。それが正しいかどうかを議論することに意味はありませんでした。死という選択肢がすべての人に与えられた札であるならば、幸運にもそれ以外の札を与えられた私は、精一杯その札を選びとれる人間でありたいと、今ではそう思います。そこに立派なものや善いものなど何ひとつありません。
 やはり、私は私にとって死が希望にはなれないから、生が希望であると、

 そんな眩しい綺麗事を、どこかでずっと信じていたいからなのだと、そう思います。