amaneのブログ

思考を整理整頓するための場です。

センサー

 私の母方の祖母は、私が生まれる23日前に亡くなり(おそらく)、祖母の亡くなった23日後に生まれたからか、昔はよく天音はばあばの生まれ変わりなんだと祖父に聞かされました。

  小さい頃はよく祖父の家に行っていて、お泊まりもしていて、よく2人で台所に立ち料理をしご飯を一緒に食べていました。朝は決まってベーコンエッグで、祖父が朝食の準備をしている間に私は庭の木や花にお米の研ぎ汁をやりに行き、戻ってきたらごはんやみそ汁をよそって、2人でいただきますをしました。私はなかでも祖父のつくるみそ汁が一番好きでした。昔はあまり量が食べられなかったせいで完食できないことも多くあり、でも、もう食べられないの一言がなかなか言い出せずぐずぐずしている私に祖父は決まっていつも、いいさ、食べれんときは残してもいいんやでな、と言いました。

 確かそのときも料理をしていたと思います。私はシンクで台拭きを絞っていました。いつも通り台拭きを絞る私を見た祖父は突然笑って、それやとうまく絞れんやろ、ばあも同じ絞り方やったでな、と話し始め、力の入る上手な絞り方を教えてくれました。そして最後はいつものように、やっぱり天音はばあばの生まれ変わりなんやなあと嬉しそうに言っていました。そのとき教えてもらった上手な絞り方を今でも覚えていますが、何となく私は未だに力の入りにくい、下手な絞り方をします。
 今思うと、長年連れ添ってきた妻を亡くし、もしくは母を亡くした彼らにとって、ひと月経たずに産まれた私はどんな存在だったのか、そんなことを思ったりもしますが、どうであれ私はあの1月15日に産まれて良かったなと思っています。

 以前久しぶりに会った友人に、自分は1を100にすることはできるけど0を1にすることはできない、だからお前はすごいよ、と言われました。彼からすると、芸術というものは0から1を生み出しているように見えるみたいでした。
 しかし残念ながら私も0を1にすることはできません。無から有を生み出せるのは神様しかいないので、だから、もし私が0を1にしたように見えるなら、それは単に組み合わせの問題だろうと言いました。2という概念をもたないあなたから見れば、1と1を足して2をつくる私はすごいのかもしれないけれど、実際は違うのだと言いました。私とあなたのしていることは大して変わらないよと言いました。

 人である私が何かを生み出そうとしたら、それは目の前にあるものを見つめるしかありません。それは人であれものであれ動物であれ風であれ何であれ、見つめるものは何だっていいのだと思います。ただ、むやみやたらと見たそこからなにを思ってなにを掬いとるのかが大切なんじゃないかと考えています。
 私の周りにはそういうセンサーというか、心にぴんと一本の線の張られた人が多くいます。だからそういう人たちを見て、私もそうありたいと、つまらないと切り捨てるのではなく、面白いと言って、そこから何か大切ものを見つけられる人になりたいと、そう思っています。